フィルムによる映画体験
●オリジナルはどこにある?
デジタル表現は、オリジナルをそのまま世界中に届けられる。そこにニセモノっていう疑いはうまれないんではないだろうか。世界中に遍在するオリジナル。
けど、対して、アナログメディアでは、少なくとも個人制作によるアナログメディアでは、それをオリジナルで観賞するためには、ホンモノだと信用できるフィルムがかけられる場へ自ら赴むかないとならない。アナログメディアでは、オリジナルの作品は、ホンモノのフィルムによってしか表現しえない。
●「映画体験」のゆくえ
ところで、よく言われることに映画体験は、映画館へ観にいく支度をして、靴を履いて、家を出るところからはじまっているという感覚がある(80~90年代に映画館に通った身としては特に)。
なので、家だろうと出先だろうとどこでも楽しめるデジタル表現が日常化しているとすれば、一方のフィルムによるオリジナルな映画体験は、さらに特別な行為になるんじゃなかろうか。
前節の最後で否定的に書いたフィルムの観賞スタイルは、これをポジティブにとらえれば、次のようになると思う。
アナログ表現を観賞することは、旅のように、観光のようなスタイルを突き進むんだな、と。
●フィルム映画の観客
「旅」を経由することなくフィルム映画をオリジナルで体験することはかなり難しい。ほぼできないとすら言える。これは実は過去においても、現在においても変わっていない。フィルムも映写機も、作家自身がその特定の場所で持っているから。
●フィルム映画の作家
逆にみると、作家は、フィルム体験を提供しうる人は、観客になりうる人がそのフィルム映画体験を実行に移そうと動機づけられるだけのことを提供する必要があるんだろう。
まずは、作品の魅力で、これは、同時に、フィルムで観たいと思わせる大前提になっているはず。
さらには、観賞スペースや前後のトーク(作家の/観客同士の)、もっと言えば情報だけでもあご・あしの提供があったほうがよさそう。また、行き帰りの他の観光スポット(開始時間が決まっているのであればその前後に楽しめる観光スポットのようなもの)も。
よくをいえば<フィルム映画観光>がまとまって行程表になっているくらいのことになるのかもしれないなぁ。
●でもそれって、、、
ここまで書いて思うのは、それって単館映画を見に行っていた時のことじゃん?ということ。まったくその通りだよ。
●映画を観るモチベーション
で、問題は「作品の魅力」は、どのように伝えられるか?伝わっていくのか?ここにフィルムの、フィルムだからこそのジレンマがある。
前提として、フィルム作品自体の魅力とその良し悪しの判断は、観客が実際にそのフィルムを観るまでわからない。作品の魅力こそが観賞の一番の動機なのだから、ここでフィルムはジレンマに陥ってしまう。では、どうするか?
「作品の魅力」に漸近しうる情報を発信すること、これだろう。それは、これまではチラシという形態をとってきたが、チラシもアナログなメディアであり、これ(だけ)では同じジレンマに陥る。
ここにデジタル技術、特にWebの波及力を活かさない手はない。BlogやSNSなどによって「作品の魅力」を発信すること(って普通すぎだろうか。できれば言語を複数つかうことも必要だろし、tagの有効性にも検討すべき)。ありとあらゆる情報を、「作品の魅力」のまわりに、ねっとりと纏わりつかせる。
アナログメディアであるフィルムこそは、デジタル技術を駆使していく必要があり、積極的に使い倒すべきなんだろう。
※興行について
映画がフィルムでは制作されなくなっている。新作は生まれない。つまり、新作映画を興行することはできない。
いや、待って!ここで、「新作」の定義も変えておこう。
作品は、ある時完成し、公開され、観賞される。これまでも、これからも同じ。
でもそれは、興行主から見た視点、言い換えれば、現在の地平からいま生きている人宛てにみた視点だろう。
でも、人は、未来にもいる。(単純に増えるといってるんじゃないよ)
未来の人だって、映画を見たい、はず。その人が、その映画を知る時がある。その時、その人にとって、その映画は、<新作>だ。
この感覚は、自身にあてはめてもらえると共有してもらえるだろう。
Webで何度も見ているし、情報はたーんと知っているリュミエールのあの作品は、いまだぼくにとって新作だ、なんてったって、まだフィルムで観ていないんだから。誰か、フィルム上映して。